満福寺

前回は朝のランニング時間を活用して「小動神社」に参拝したお話をしましたが、今朝は同じく腰越にある「満福寺」に行ってきました。朝8時前、腰越の電車通りはほとんど人が歩いておらず、車の行き交いもまばらです。その電車通りから一本脇道へ曲がると、すぐに満福寺が目の前に入ります。

満福寺の裏手には七里ケ浜霊園が広がっており、狭いですが車で来られるようにもなっています。正面の階段手前にはすぐに江ノ電が走っていて、踏切すらないところなど、鎌倉らしい風情を感じることができます。朝早かったので本堂は閉まっていましたが、お賽銭を投げて参拝をさせていただきました。

ここ満福寺は創建が744年ということが驚きです。そんなに古くからあるの?、と思ってしまいました。義経の「腰越状」のイメージが強かったので鎌倉時代にさしかかるくらいに創建されたのかな、と思っていましたが、そうではなく、奈良時代に聖武天皇の命で建てられたんですね。

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腰越はその昔、いわゆる「衢」で、鎌倉の西の出入口の役目を果たしていました。鎌倉から京都へ出発する重要地点だったと考えられます。旅人が泊まる宿も多かったことでしょう。実際に現在の鎌倉市の最西南エリアであり、今でも「かきや旅館」など立派な老舗宿泊施設は存在しています。

源義経は1185年の壇ノ浦の戦いにて平氏を滅ぼしました。そして鎌倉(西の玄関口である腰越)へ凱旋帰国するも、兄である頼朝から疎んじられてしまい、鎌倉入りを拒絶されてしまいます。その時に2週間程度滞在したのが、ここ満福寺です。

義経はなんとか兄頼朝の怒りを解こうと「腰越状」を書いて、その書状を提出するも、許されませんでした。その後義経は平泉の奥州藤原氏にかくまってもらうことになります。遂には兄から義経追討の命が下され、義経は平泉で不遇の死を遂げることになります。

満福寺本殿のそばに「硯の池」があります。そんなに大きくないこの池には鯉が泳いでいました。当時「腰越状」の下書きを弁慶が書くために、この池の水を汲んだといわれています。その下書きは本殿に保管してあります。そして境内には「義経公慰霊碑」が今もあります。

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